熊野御前は、平安時代の末期に池田荘の庄司の藤原重徳の娘として生まれた。
この歌碑には、平宗盛を想う心と、母を慕う心が詠われている。
熊野御前は、平清盛の三男・宗盛に見染められ、京にのぼりお仕えしていた。
そんな折、母病いの報が届く。
花見の宴で熊野は舞を舞いながら、歌を詠んだ。雨に散る桜に、母の病状を重ねた歌に宗盛は心を痛め、帰郷を許したという。

いかにせむ都の春もをしけれど
 なれしあずまの花や散るらむ

宗盛の死を知った熊野は、尼となり33歳でその生涯を閉じた。

分 類句・歌碑
作 者不詳
制作年明治42年(1909)
場 所行興寺境内(池田)
詳 細高さ143㎝、幅57㎝

取材をおえて

行興寺には、母と熊野の墓が並んで建てられている。
熊野が愛し、植えたという藤は、房の長さが6尺近くも伸び、毎年4月後半から5月初旬に行われる「長藤まつり」の際には、熊野の供養も行われている。